文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、小黒冴夏
尾島美佐子(おじま・みさこ)さん|元タカラジェンヌ(宝塚歌劇 67期生)
現姓は南。1979年3月に武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)を卒業。1981年4月から1998年12月まで、小乙女幸(さおとめ・さち)の名前で兵庫県宝塚市に本拠地を置く歌劇団の宝塚歌劇で活動。引退後は有限会社さんぷりんせすを立ち上げ、イベントの企画や演出、振りつけや作詞、さらには作曲も行う。紅音ミュージカル研究塾の代表として宝塚音楽学校への入学をめざす少女たちの指導にもあたり、未就学児やシニア世代に対してもレッスンを行っている。趣味は登山。宝塚歌劇の同期で、1985年に起こった日本航空123便墜落事故で、24歳の若さで亡くなった北原遥子さんの慰霊登山も毎年している。
友人たちからは「ハイジ」という愛称で親しまれた
2023年の秋以降、ずっと忙しい。古巣である宝塚歌劇の雪組が2024年7月に100周年を迎えるからだ。かつて雪組で小乙女幸(さおとめ・さち)として活躍した尾島美佐子さんは、雪組の100周年に絡めて、裏方に回って奮闘している。
元タカラジェンヌの尾島さんは武蔵野女子学院高等学校(現 武蔵野大学高等学校)の卒業生だ。練馬区の公立中学校から受験して合格した。入学した経緯をこう語る。
「まず、先輩の親御さんに『とてもいい学校よ』と勧められたんです。『仏教の学校で、生きる根底みたいなものを教えてもらえるから』と言われました。私の家は浄土真宗ですから、それも何かのご縁だったのかもしれません。中学3年生のとき、文化祭にあたる樹華祭に足を運んで、おおらかな雰囲気に好印象を持った記憶があります。女子校という点にも心引かれるものがありましたね」
入学してすぐの4月8日、お釈迦様の誕生日に築地本願寺を訪れた出来事は鮮明に覚えている。荘厳な空気のなか、ほかの仏教系の女子高の生徒たちと仏教讃歌を歌い、大いに気が引き締まった。「『これから仏教の教えをしっかり学ぶんですよ』と言われている気がして、私にとっては衝撃的な一日でした」と明かす。
背筋をしゃんと伸ばしてからほどなく、「ハイジ」という愛称で親しまれるようになった。髪型が「アルプスの少女ハイジ」に似ていたのが理由だった。「それに、あのころの私はハイジみたいにふっくらしていたんですよ」と笑う。当時の友人からはいまだに「ハイジ」と呼ばれることがある。
実のところ、1年生の夏休み以降の記憶はいくらか曖昧だ。クラシックバレエ、ピアノ、三味線、ジャズダンス、モダンダンス、声楽と、放課後は稽古事で毎日が忙しかった。「小乙女すみれ」として活動した母のように宝塚歌劇の舞台に立ちたい──宝塚歌劇の団員になるべく、宝塚音楽学校をめざす日々を送るようになった。
高校生活の一部を諦めてレッスンに打ち込む
稽古事が終わって帰宅するのは毎日夜の10時すぎ。そこから宿題をこなし、寝るのはいつも12時を越えた。「朝なかなか起きられず、いつも遅刻しそうでした」と苦笑する。名前も学年も知らないのに、同じ制服の“遅刻寸前組”と目配せをして西武新宿線の田無駅からタクシーに相乗りし、大急ぎで通学した日もある。
毎日、夢を一心不乱に追っていたから、学校生活の思い出が少ない。授業後の掃除を手伝えなかったし、放課後、吉祥寺にあるピザとポテトが食べ放題のお店に誘われ、「行きたいな」と思ったけれど、稽古事があるからやむなく断った。バレエの舞台があったから、修学旅行にも行かなかった。
でも、現実は残酷だった。高校生活の一部を諦めるほど懸命にレッスンに打ち込んだものの、高校2年次は宝塚音楽学校の試験に受からなかった。尾島さんは振り返る。
「第2次試験まで進んで、母と一緒に大阪に合格発表を見にいったんですが、すごく悔しかったです。落ちたことを飲み込もうとする自分がいる一方で、『なぜ落ちたの?』という悔しさが募りました。帰りの新幹線は大号泣でしたね。『絶対に来年も受けよう!』と思ったことを覚えています」
夢を見据え、友人と過ごす時間がなかなか少なかったからこそ、鮮やかな思い出もある。高校3年次の樹華祭は一生忘れられないほど楽しかった。尾島さんは滑らかに話す。
「教室を喫茶店みたいにしたんです。みんなでカップとソーサーを買いに行ったことをよく覚えていますね。七色に光る可愛いセットだったんですが、数がそろわなくて少しだけブルー系のものも買いました。当日、私は食券を売る係を担当して、ユキエちゃんがクッキーを焼いてくれて。接客の体験は楽しかったですし、『おいしかったよ』と言ってもらえたのもうれしかったです。樹華祭のあと、希望者がカップとソーサーを持ち帰った光景も頭に残っています。全員で扇子を持って舞った『荒城の月』も、厳しかった練習も含めて忘れられません」
つかの間の青春を謳歌した高校3年次、2度目の挑戦で宝塚音楽学校に合格する。家庭の事情で志なかばで宝塚歌劇をやめていた母は、発表があった4月7日、自分のことのようにうれし泣きしてくれた。
1981年の4月に3本立てで宝塚歌劇デビューを果たす
1979年に入学した宝塚音楽学校ではバレエの保志克巳先生から「りんご」という愛称を拝命した。バレエを踊ったあと、懸命に動いたせいでほっぺが赤くなったのがその由来だ。今でも宝塚関係者やファンからは「りんごちゃん」や「りんごさん」という名で親しまれている。
宝塚音楽学校で2年間稽古を重ねた尾島さんは、宝塚歌劇で念願の初披露を果たす。小乙女幸としての第一歩は細部まで思い出せる。
「デビューは1981年の4月です。『宝塚春の踊り』『恋天狗』『ファースト・ラブ』の3本立てで花組で初舞台を踏み、感無量でした。毎日ワクワクドキドキでしたし、お客様の拍手は自分のエネルギーになるし、大変ありがたいことだと学びました。当時は松あきらさんと順みつきさんのダブルトップでしたね。自分のお化粧スペースが順みつきさんのお部屋のすぐ前だったんですが、ものすごく憧れていた順みつきさんに『りんごちゃん』と呼んで声をかけていただいて大感動! ファン時代の幼い自分に『素晴らしい、うれしい出来事が待ってるよ』と伝えたいと思いました」
同期の67期生には真矢ミキさんや黒木瞳さん、涼風真世さんや毬藻えりさん、それから北原遥子さんや水原環さんなど、のちに華々しい活躍をする仲間がいた。とりわけ親しくなったのは真矢さんだ。新人公演で真矢さんが主役に抜擢されると、その舞台を見終えた尾島さんは感涙もそのままにその感動を直接伝えた。そこからぐっと距離が近づき、無二の友人となったという。一緒に登山を楽しむなど、今でも関係は続いている。
夢をかなえ、雪組の娘役として過ごした時間は濃厚だ。ファン時代に観ており、大好きだった作品が二つあって、その両方に出演できたことには特別な感情がある。『ベルサイユのばら』で「美しい悪魔」と言われるジャンヌを、『この恋は雲の涯まで』でアイヌの首長の娘であるチャレンカを配役されたときは涙が出るほどうれしかった。
ほかにも大石りくに扮した『忠臣蔵』、一路真輝さんの相手役である妻のエリー・シュルツを演じた『ショー・ボート』、阪神淡路大震災の際に上演していた『グッバイ・メリーゴーランド』、日本オリジナル・キャストで大人気作品の『エリザベート』、1998年12月、自身の引退公演となった『浅茅が宿』と『ラヴィール』など、思い出の舞台を数え上げればきりがない。
母の胆のうがんがわかって看病のために引退を決めるまで、あるいはその後に後進の指導にあたるうえでは、武蔵野女子学院高等学校での学びが生きている。尾島さんは言う。
「人が見ていないところでもお釈迦様は見ている、という教えは自分の根底にあると思います。誰かに見られているから頑張るのではない、ということですよね。それから、『精進』という考え方も芸につながるので、すごく好きです。人生って『これでいい』というゴールがあるわけではなく、『もうちょっとこういうふうにできるんじゃないか』『こうやったほうがもっといいんじゃないか』と自問自答しつつ、死ぬまで一生懸命、よりよくするものだと思います。武蔵野女子学院高等学校では『これでいいや』と妥協しない考えの種をまいてもらった気がしています」
※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。
りんごの同期の67期生の燁明です!
りんごの高校時代の話しが読めてとても嬉しいです。
拡散します!
有難うございました
子供が先生にダンスを教わっています。
記事を読み、先生のお人柄の良さの根底に触れられたようで嬉しいです。
登山の写真が素敵!
りんごさんが宝塚に在籍されていた時のご縁で、あれから四半世紀経った数年前、嬉しいご縁が復活しました。
偶然再会させていただいた時に、「ご縁だから!」と連絡先を交換してくださった優しいりんごさん。インタビューを読ませていただいて、りんごさんの原点がこの学校時代に育まれたのだなぁと思いました。
あれから、私が辛い時、お忙しいのに沢山励ましてくださり、気にかけてくださいました。
今は裏方をされることも多いですが、りんごさんのパワフルなパフォーマンスも大好きなので、また舞台でのお姿も拝見できたら嬉しいです。
昔も今の変わりなく頑張り続けるりんごちゃんに出会えて、本当に嬉しく思っています。
ご縁があって、一緒に山にいくようになり、そこでいろいろりんごちゃんの優しさ・思いやり・気配り等を再認識しました。多方面での活躍今後もずっと応援しています。
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