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私たちはどう生きるか|佐々木晶子さん

写真=本人提供、鷹羽康博

佐々木晶子(ささき・あきこ)さん|浄土真宗本願寺派天龍山福勝寺 坊守
千葉県夷隅郡大多喜町出身。旧姓は麻生。1997年3月に武蔵野女子大学短期大学部文科国文専攻を首席で卒業後、武蔵野女子大学 文学部日本文学科3年次に編入学、1999年3月に武蔵野女子大学を卒業。2001年3月に武蔵野女子大学大学院 人間社会・文化研究科 言語文化専攻修士課程修了。国語の中学校教諭専修免許状と高等学校教諭専修免許状を取得。20歳のときに田中教照先生たちとインドを訪れ、さまざまな社会問題に興味関心を持つようになる。「摩耶祭」では仏教文化研究所において、脳死と臓器移植、安楽死や自殺などを扱った発表を行っている。

仏教に救いを求め、武蔵野女子大学短期大学部へ入学

6年間を武蔵野キャンパスで過ごした 6年間を武蔵野キャンパスで過ごした

「私が1歳のころに両親が離婚し、実家の一族への対抗勢力からの迫害を受け続けた。シングルマザーの母は小学校教諭として働き、祖母が母親代わりであった。祖父は私が3歳のときに脳梗塞で右半身不随、13年間の在宅介護生活となる。私も物心ついたときから介護の担い手であり、ヤングケアラーであったかもしれないが、祖父が傍にいてくれるだけで心強かったし、大変であったが苦ではなかった。その後、祖母は胃ガンと壮絶に闘い往生を遂げる。祖父母は信念を持ち、最期まで尊厳を持って生きることとは、いったい何であるのか、生老病死を身をもって教えてくれたかけがえのない存在であった」

佐々木晶子さんは、子どものころに親や家のことでいじめ虐待を受け、誰にも相談できず悩んでいたときに仏教に出遇う。菩提寺の住職様に僧侶になりたいと相談し、写経を勧められ10歳のときから始めた。書いているうちに不思議と心が落ち着くが、過酷な仕打ちに耐えきれず、「生きること、生まれた意味とは何か」を希求し、進路を探していくなかで、武蔵野女子大学短期大学部は仏教学が必修科目であり、高校の先生にも勧められ、受験をして武蔵野女子大学短期大学部の文科国文専攻に合格して入学を決めた。18歳から上京して一人暮らしを始めた。

入学後すぐに仏教文化研究所に入所。「仏教文化研究所ではゼミ形式で、さまざまな社会問題を取り上げ、仏教の視点からどう捉えていくのかについてレポートを書いて発表し議論を行った。前田專學先生、田中教照先生、山崎龍明先生、西本照真先生、本多靜芳先生には大変お世話になり、仏教文化研究所で過ごした日々はとても大切な時間であり、今の私があるのも先生方のおかげと心から感謝している」

また、課外では仏教の実践運動にも携わってみたいという思いから、「つきじYBA」(築地本願寺仏教青年会)において、仏教を通じた社会問題を議論したり、ボランティア活動を展開したりするなかで、自身の生き方を模索していた。

短期大学部において、近現代文学を専門とする竹田日出夫先生とめぐり会ったことは、武蔵野キャンパスでの学びを豊かにしてくれた。

祖母から和歌と書道、華道、茶道などの手ほどきを受けて、幼いころから日本文化を学んでいた影響から、短大では『源氏物語』や『枕草子』などの平安時代の女流文学研究に力を注ぐ。古典を学んだことにより、近現代文学への理解がより深まった。その後、武蔵野女子大学文学部日本文学科に編入学する。

教職課程を受講するなかで、多角的な角度から物事を見る目を養うことが必要だと思い、手話サークルを友人とつくり活動を展開したり、フランス文学研究会に入り他学部との交友関係を広げたりすることにより、さまざまな考えがあることを知ることができた。

卒業論文では、キリスト教を信仰する三浦綾子の『塩狩峠』を取り上げ、自己犠牲をテーマとした話が自身の心情に合い、真摯に生きることの尊さ、犠牲や救いとはいったい何かを問い続けた。

竹田先生に導かれて新設の大学院に進学

6年間ではさまざまな先生方にお世話になった 6年間ではさまざまな先生方にお世話になった

1999年に武蔵野女子大学に大学院が設置されると、竹田先生に導かれ、人間社会・文化研究科言語文化専攻修士課程で学ぶこととなる。修士論文は「遠藤周作 『深い河』論─《失われた愛》を求めて─」。

「文学とは生きた人間がどう考えているのかを心で感じていくことである。自分の思いを表現するなかで、心の深淵に潜む暗い面とも対峙し続ける。卒論で自己犠牲とは何かを問い続け、修論において、苦しみを自己のなかに内包し、人生を伴走してくれる大きな存在に救いを求めていく姿を問い続けた。文学は戸惑い悩む私にとって大いなる救いであり、書くことによって苦しみを昇華していったのである」

短期大学部から大学院の修士課程まで指導を受け、“東京の父”とも言える竹田先生が贈ってくれた言葉を今でも大切にしている。

「あなたの夢は必ず叶いますよ。ずっと思い続ける強い意志と諦めないで取り組む姿勢が大切です。それさえできたら何でもなれますよ。そして、自分の夢が叶ったら、感謝の思いを社会へ還していくことを忘れないようにね。そしてつらい状況の人がいたら今度は自分が率先して手を差し伸べて、傍らに立ち、ともに生きていくことが大切ですよ。頑張ってね」

「悩まれている方の心に寄り添うことができる優しいお寺」をめざして

現在は天龍山福勝寺の坊守を務める 現在は天龍山福勝寺の坊守を務める

大学院で修士号を取得後、仏教系の出版社に就職するが、体調を崩し退職を余儀なくされる。その後、中高年の生きがいの問題や生涯学習まちづくり研究に携わるようになり、「苦しむ人々の手助けになりたい。自分がやらなければ社会は何も変わらない」と気づかされ、墨田区議会議員選挙に出馬し当選。1期4年のなかで、高齢者福祉、終末医療緩和ケア、いじめ虐待や不登校問題、食育とまちづくり、人と動物との共生社会、災害対策研究などの活動を展開する。

その後、築地本願寺仏教青年会で20歳のころに出遇うことができた東京都文京区にある浄土真宗本願寺派天龍山福勝寺の僧侶(当時は若住職)で、4歳年上の貴宏さんに一通のメールを送り16年ぶりに再会する。貴宏さんは優しさと笑顔で包み込み、親身になりいろいろな問題と向き合ってくれて、縁あって結婚となる。

結婚半年後に東京仏教学院に入学。夜学で仏教を勉強するなかで僧侶の道を志すが、在学中に病に倒れ、脳損傷や失明寸前となり休学の後に卒業を果たす。その後もさまざまな事件に巻き込まれ、生き地獄のような砂を噛む日々のなかで「祖父の死は私に生老病死を教えてくれた善知識であった。私の行く道を照らしてくれた法縁であり、多くの命に生かされていることに心底気づかされた」と言う。

現在、夫の貴宏さんが住職を務める福勝寺の坊守として奉職。貴宏さん曰く「晶子さんは頑張り屋でお寺を支えてくれているかけがえのない存在である。多くの人々とのご縁の積み重ねが私たちを生かしてくれて、今大きな力となって導いてくれている」

佐々木ご夫妻は「悩まれている方の心に寄り添うことができる優しいお寺」をめざし、「境内に福勝寺ファームをつくって花や野菜を育てていることは、まさにガーデンセラピーである。日々の植物の世話はマインドフルネスでもある。命のつながりに想いを馳せることは、自身の生き方を見つめ直すことにもつながっている」と言う。また、文学講座やワークショップなども開催していく予定であるという。

人間は各々、哀歓の色合いが微妙に異なる。佐々木さんは個々と真剣に向き合うべく、仏教学や真宗学にとどまらず、園芸や植物学、環境工学や獣医学を学んでいる。自らの経験をもとに幅広い視点を持ち、社会貢献をめざし、限りある命の時間のなかで、どう生きていくべきかを、ともに考えともに学び、混迷する令和の時代を駆け抜けていく覚悟である。

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。

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