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ぎゅう詰めの思い出箱|設樂直子さん

文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、小黒冴夏

設樂直子(したら・なおこ)さん|児童発達支援・放課後等デイサービス フルーロン 勤務
東京都出身。武蔵野女子学院中学校・高等学校(現武蔵野大学中学校・高等学校)で学んだあと、2003年3月に武蔵野大学文学部の英語・英米文学科(現グローバルコミュニケーション学科)を卒業。大学時代には母校で教育実習を行い「中学校教諭一種免許状(英語)」と「高等学校教諭一種免許状(英語)」を取得し、日本語教師と学校図書館司書教諭の免許も得ている。武蔵野大学大学院の言語文化研究科 言語文化専攻 言語文化コースで学び、修士号を持つ。現在は大学時代にも関わっていた福祉の仕事に従事。趣味は中国語の勉強や合気道など。

「校門の前に掲げられている聖語を読むのが毎朝の楽しみでした」

武蔵野キャンパスには12年間通った。12歳から24歳までをずっと過ごした場所だから、思い出箱はぎゅう詰めだ。設樂直子さんは最初の出合いを思い起こす。

「初めて訪れたのは小学6年生のときです。学校見学できたのですが、銀杏並木の雰囲気やキャンパスが広くて自然豊かな点が気に入って、受験しようと決めました。ほかの女子校よりも堅苦しくなくて、先輩たちの優しさも印象的でした」

いざ合格を果たすと、友だち同士でべったり群れない環境が心地よかった。小学生のころはリーダ格のクラスメイトが幅を利かせるようなグループにどうしてもなじめなかったけれど、武蔵野女子学院中学校(現武蔵野大学中学校)は違った。誰も偉ぶらないし、誰の顔色もうかがわなくていい。お互いが個性やそれぞれの時間を尊重し合う距離感で、自由闊達に過ごすことができた。

小学生のころから好きだった国語の授業では、一番前の席を希望した。百人一首を全部覚える宿題も中学時代の思い出のひとつだ。上の句を聞くと、今でも下の句をそらんじることができる。一方で、英語は大の苦手だった。テストで赤点ぎりぎりだったこともある。「平叙文を否定文に変えることもできなかったんです」と設樂さんは頭をかき、けれども当時をなつかしむ。

「聖語を読むのが毎朝の楽しみでしたね」 「聖語を読むのが毎朝の楽しみでしたね」

「校門の前に掲げられている聖語を読むのが毎朝の楽しみでしたね。部活動は母の影響で茶道部に入り、水泳部でも活動していました。高校受験がなかったので、中学3年生のときに海外文学を読み始めたことも覚えています。教師だった父に促され、ウィリアム・シェイクスピアも読んでみました。休日は友だちと原宿や池袋にショッピングに出かけましたし、充実した中学生活だったと思います」

武蔵野女子学院高等学校(現武蔵野大学高等学校)に進学して大きく変わったのは、苦手だった英語が好きな教科になったことだ。小堀徳子先生や小谷野千純先生の授業がわかりやすかった。疑問があれば放課後に二人を質問攻めにし、英語力を着実に磨いていった。

高校時代は吹奏楽とボランティアに打ち込み、内部進学で英語・英米文学科へ

武蔵野女子学院高等学校では、思いっきり放課後の活動に打ち込んだ。

一つは吹奏楽部だ。小学生のころから親しんでいたフルートを吹き、クラシックはもちろん、ジャズやボサノヴァなど幅広いジャンルを演奏した。夏休みには河口湖の近くで3泊4日の音楽合宿を行い、夜には友だちと一緒に宿題に取り組んだ。最後の演奏会のあとに友人の家に泊まり、みんなで朝まで騒ぎ合ったのも忘れられない思い出だ。

吹奏楽部と並行してボランティア部にも在籍した。幼いころにガールスカウトに参加していた影響もあり、「人のために尽くしたい」という思いが強かった。ボランティアの活動は部活だけにとどまらず、学校の外にも広がった。設樂さんは明かす。

「田無市のボランティアセンターに登録して、身体に障害のある小学生の生活を支えていました。その子が学校から帰ってくる時間に合わせて訪問して、一緒にピアノを弾いたり、宿題を手伝ったりしていました。ボランティアに関しては、中高と仏教にふれた影響も大きいと感じています。仏教における利他の心はそのままボランティアの精神に重なると思います」

早々と内部進学を心に決めていたが、大学で何を学ぶべきか少し迷いがあった。好きになった英語を追求できる英語・英米文学科(現グローバルコミュニケーション学科)か、新たに立ち上がる社会福祉学科か。二つのやりたいことに挟まれ心が揺れたものの、最終的には「教員免許を取りたい」という思いで英語・英米文学科への進学を選択した。

武蔵野大学での4年間は、曰く「ものすごく忙しかったです」。英語・英米文学科の授業に加え、教員免許を取得するための講義も受ける必要があったからだ。研究費や旅費を自分でまかなうために二つのアルバイトを掛け持ちし、長期休暇には語学留学したカナダのほか、オーストラリアやアメリカ、中国、タイ、ベトナムなども訪れた。地球規模で多忙な日々を過ごし、設樂さんの人生観は間違いなく豊かになった。

英語・英米文学科では興味の対象が変わった。胸に響いたウィリアム・フォークナーなどの文学から、かつては「インディアン」と呼ばれたアメリカの先住民族、ネイティブ・アメリカンに関心を抱くようになった。

ネイティブ・アメリカンを研究するため、アメリカで現地取材を実行

設樂さんは振り返る。

「示村陽一先生のゼミでアメリカ文化の研究に進んだのですが、特にネイティブ・アメリカンの歴史や存在に興味が湧いたんです。父がよく観ていた西部劇ではネイティブ・アメリカンは悪者として描かれていたけれど、『本当にそうなのかな?』とも思いました。決め手の一つになったのはネイティブ・アメリカンだけを丹念に扱った『虹の戦士』という書籍で、その本を読んで卒業論文のテーマを固めました」

とりわけ好奇心をかき立てられたのはアメリカのニューメキシコ州やアリゾナ州に住むズニ族だ。石を細かくカットしてシルバー枠にはめ込んでいく「インレイ」という技法を用いた装飾品やジュエリーをつくり上げる、芸術性の高い定住型農耕先住民を深掘りすべく、大学4年次にはアメリカに飛んだ。2週間ほど現地取材を行い、ズニ族のアートに関する卒業論文をまとめると、研究を続けるために武蔵野大学大学院の言語文化研究科 言語文化専攻 言語文化コースに進学する。大学院でもズニ族に向き合い、再び現地でのフィールドワークを重ね、アートに表象される精神世界を読み解く修士論文を書き上げた。

大学院の修士課程を修了後の展望ははっきりしていた。「社会に出てからは、英語、ネイティブ・アメリカン、福祉と、好きなことを全部やってみようと思いました」と話す。東京都内の私立女子高校で3年ほど英語教師を務めたあとは、ネイティブ・アメリカンが手がけるジュエリーを輸入販売する会社に就職。7年ほど勤務し、その後は大学時代に力を入れた福祉の世界に戻ってきた。

2021年からは児童発達支援や放課後等デイサービスを行うフルーロンという施設で働く。現在は児童発達支援管理責任者を務め、子どもたちの成長をよりよく後押しするために2024年7月に保育士資格を取得した。「好きなこと」の三つ目に向き合う設樂さんは言う。

  • 現在は児童発達支援・放課後等デイサービス フルーロンに勤務

    現在は児童発達支援・放課後等デイサービス フルーロンに勤務

  • フルーロンでは3歳から18歳までの子どもたちと向き合う

    フルーロンでは3歳から18歳までの子どもたちと向き合う

「フルーロンでは3歳から18歳までの子の支援を行っています。障害や自閉スペクトラム症などで話せなかった子が私の名前を呼んでくれたり、自分の好きなことを見つけてがんばっている姿を見たりすると、大きなやりがいを感じますね。いずれは自分の施設を立ち上げ、18歳以降もケアしていきたいという夢があります」

ぎゅう詰めの思い出箱は豊富な経験の証しだ。さまざまな道を歩いてきた設樂さんだからこそ、できることがある。

※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。

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