“あの日を忘れないために”
武蔵野キャンパスには、本学院の歴史を刻んだ記念樹や石碑があります。その中のひとつが、雪頂講堂と図書館の間に佇む「わびすけ」の木と「散華乙女の記念樹碑」です。1944(昭和19)年12月3日の空襲で帰らぬ人となった4人の生徒を追悼するため、戦後の1948(昭和23)年にわびすけの苗が植樹され、生徒らの呼びかけをきっかけに1978(昭和53)年、植樹の由来を記した記念樹碑が建立されました。
あの日、何が起こったのでしょうか。武蔵野女子学院同窓会くれない会が出版した『あの日をわすれないために 武蔵野女子学院生の戦争証言集』にはこう記されています。
「アジア太平洋戦の末期になると、日本はアメリカ軍の空からの爆撃に襲われるようになります。一九四四(昭和十九)年十二月三日午後三時頃、B29による空襲がありました。この日、学院の校庭に六発の爆弾が落ちました。そして、そのうちの一発がこの防空壕に命中したのです。この防空壕に退避していた四人の生徒が尊い命を落としました。齋藤昭子さん、小林りつ子さん、赤沢ミヨさん、中根尚子さんの四人で、武蔵野女子学院高等女学校(女子に対して中等教育を行っていた教育機関)の最上級生の五年生、歳は十七歳でした。この日、彼女らは、空襲警報が鳴ると、学徒勤労動員先の中島飛行機武蔵製作所から母校へ逃げてきたのです。しかし爆弾は、防空壕の入り口付近で炸裂し、四人は数十メートルも吹き上げられ、二人は第一講堂の屋根に、二人は地上に落下しました。遺体が変形したほど悲惨なものだったそうです。校舎の裏側からは白い煙が上がり、テニスコート(現在の大学図書館あたり)の北側の土手(被爆側)は吹き飛び、コートは土砂に覆われてしまいました。戦況厳しき折、四人のご遺体は軍部によって処理されました
」
戦時中、軍需工場が立地された武蔵野一帯は空襲の標的になりました。本学院の近くには国内有数の航空機メーカー、中島飛行機武蔵製作所があり、生徒は学徒勤労動員として働いていました。空襲も、学徒勤労動員として働くことも、当時の日本では決して珍しいことではなく、この地で4人は一瞬にして未来を奪われたのです。
つい昨日まで一緒に過ごしていた4人を失った生徒たちの驚きと悲しみは、いかほどのものだったのでしょうか。同証言集に収録されている「追悼文集『散華乙女の碑』」には、若くして散華した友に捧げる級友の声が綴られています。隣の防空壕に避難して難を逃れた方、4人と親しかった方など、それぞれの言葉に胸が痛みます。そしてみなさんの共通の願いは、記念樹碑の由来、戦争の悲劇と平和の尊さを次の世代に語り継ぐことでした。
2021年12月3日(金)、今年も散華乙女の追悼会がご遺族や同窓生、学校関係者によって執り行われました。同窓会からはくれない会、むらさき会本部の方々が参列。参加者たちはあの日と同じ美しい初冬の青空の下、4人を悼み焼香を行いました。
原爆の日や終戦記念日には、各地で戦争の犠牲者を追悼し、平和を誓う式典が各地で催されます。本学院と縁(えにし)を結んだすべての人々には“あの日をわすれないために”、12月3日の散華乙女の追悼会のことも心に留めてほしいと思います。
武蔵野女子学院同窓会くれない会では『あの日をわすれないために 武蔵野女子学院生の戦争証言集』を発売しています。購入を希望される方は、以下までお問い合わせください。
武蔵野大学中学校・高等学校 同窓会 くれない会
TEL・FAX:042-468-3161
e-mail:kurenai@musashino-u.ac.jp
開室:月・木(13:00~16:00)
※2021年12月10日(金)~2022年1月12日(水)は冬期休暇のため閉室です。
<参考文献>
武蔵野女子学院同窓会くれない会(2015)『あの日をわすれないために 武蔵野女子学院生の戦争証言集』、武蔵野女子学院同窓会くれない会、pp12-13。
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