「雪頂忌」の始まりとは?
武蔵野キャンパスの紫陽花が見頃を迎えるこの季節、今年も「雪頂忌」がめぐってきました。
6月28日は、学祖高楠順次郎博士のご命日である雪頂忌で、東京都杉並区築地本願寺和田堀廟所にある高楠博士の墓前で法要と墓参が行われます。例年は学院関係者、大学・高校・中学の学生・生徒代表、むらさき会、くれない会、後援会関係者が集いますが、2020年、2021年は新型コロナウイルス感染症の感染防止に鑑みて、学院関係者のみで行われました。
さて、みなさんは雪頂忌がどのように始まったのかご存じでしょうか。ここでは雪頂忌の始まりをたどってみたいと思います。手がかりとなるのは、武蔵野女子学院の創立50周年を記念し編纂された『武蔵野女子学院五十年史』です。
1945年(昭和20年)に入って太平洋戦争における空襲の激しさが増す中、高楠博士は6月28日に疎開先である御殿場の楽山荘で永眠されました。翌日楽山荘近郊で葬儀が行われましたが、多くの功績を残された高楠博士の葬送にしては余りにも淋しすぎるものであったと綴られています。戦時下ゆえ報らせを受けても参列できなかった人も多く、7月18日に改めて築地本願寺にて葬儀を執り行うことになりました。
7月18日は名だたる教育関係者に加え、各界の名士が来賓として参列し、厳粛な葬儀が行われました。本学院からは千代田女専・千代田高女・武蔵野女子学院代表の鷹谷俊之先生と生徒代表が参列し、弔詞を捧げました。
葬儀後、高楠博士の死去に伴う今後の問題について、喪主・近親者・葬儀委員一同による協議が行われました。4つある決定事項のひとつが「一.毎年六月二十八日を雪頂忌と名づけて関係者が相会し、故先生の学徳を追慕し、相互の激励を促すこととしたい。
」というものでした。「雪頂」はみなさんご存じのとおり、高楠博士の雅号です。
なお、高楠博士の業績は以下のように記されています。
高楠博士の偉大な業績については、すでに本史の叙述に即して伝えてきたとおりである。仏教界においては、日本印度学の礎を築き、『大正新修大蔵経』『国訳南伝大蔵経』『ウパニシャット全書』などが陸離たる光彩を放っており、教育界においては、多年、東京帝大の教授として、仏教研究を通じ数多の子弟を薫陶するとともに、武蔵野女子学院を創設して、仏教主義の理想を宣揚、日本の女子教育に大きく貢献した。」『大正新修大蔵経』編纂の功に第二回野間賞が授与され、仏教を通して日本文化に尽くした功績に対しては、第四回文化勲章が授与された。学者としての栄誉これに過ぐるものはない。しかも晩年、千代田女子専門学校長の要職に就き、併せて武蔵野女子学院財団および千代田女学園財団の理事長の重責を兼ね、いずれも現職のまま死を迎えたのであるから、教職者としての本望またこれに過ぐるものはなかったと思われる。
この機会に雪頂忌の始まりに立ち返り、高楠博士の学徳を追慕してみてはいかがでしょうか。2024年に創立100周年を迎える学校法人武蔵野大学では学祖関連書籍の発刊、映像制作や100年史編纂などのプロジェクトが進行しているので、今後の展開にどうぞご期待ください。
関連リンク
<参考文献>
武蔵野女子学院(1974)『武蔵野女子学院五十年史』、武蔵野女子学院、pp253-260。
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