静謐の聖語板に見出してきたこと
有明キャンパス正門、武蔵野キャンパス正門・北門に設置されている「聖語板」を覚えていますか?
先人のことばを月替わりに掲示しています。
在学時、何気なく見過ごした言葉、瞬時に腑に落ちた言葉、場面を具体的にイメージできる一文、また、思わずその意味を自身に問い掛けた経験はありませんか。
そして、1カ月間、朝に夕に目にすることで、じっくりと心に沁みこんでくる言葉がありませんでしたか?
今も変わらず、「聖語板」は学生に、教職員に、大学を訪れる人に静かに語りかけています。
10月の聖語
「欲深き人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う」高橋泥舟
今回は「幕末の三舟」のひとり、高橋泥舟の言葉です。原文は「よくふかき人のこゝろと降雪は つもるにつきて道を失なふ
」で、安部正人編纂『泥舟遺稿』に収録されています。何かを欲しいと思う心は、人間誰しも持っていると思います。それでも度を越した欲望は人の道を踏み外しかねず、だからこそ無私の心で生きるべきだと暗示されているようにも感じられます。
さて、「幕末の三舟」とは幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のことで、江戸無血開城を実現し江戸を戦火から救ったと伝えられています。海舟や鉄舟の名は聞き覚えがあっても、泥舟は知らないという方もいると思います。一体どんな人物なのでしょう。
泥舟は「海内無双」と呼ばれるほどの槍術の達人でした。その腕前と実直な働きぶりが徳川慶喜の目に留まって側近となり、従五位下伊勢守に任官しました。鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て恭順派となり、慶喜が恭順謹慎となった際には護衛にあたります。慶喜からの信頼が厚く、いかなる状況でも忠節を尽くしました。
『泥舟遺稿』に記されている泥舟を評した海舟の言葉は、泥舟の人となりを知る手がかりのひとつです。
「なに泥舟の人物はドーかと云ふのか、あれは大馬鹿だよ、當今の才子では、あんな馬鹿な眞似をするものかい、彼が幼少の時より、槍術の稽古などした様子を、聞いた事があるが、稽古となれば、晝夜數日寢食を忘れて、命かんまずなことを遣た奴だからノー、そんな馬鹿者が、今の世にあるものかい、だからあれは、槍一本で伊勢守まで成り上がつたのだ、(中略)又彼が舊主と共に、終身世に出でざるの誓をなして、主公を隱遁せしめ、自からも其誓を守つて、終身馬鹿の訾と、赤貧を甘じて、あんなに豚の眞似をして居るのは、迚も才子では出来ないよ、實に馬鹿々々しいではないか、だから己れは彼を馬鹿と云ふのだ
」
随分な言い草ですが、「馬鹿」とは並はずれているという意味もあり、相手に対する思いやりや親しみの気持ちを込めて用いることもあります。槍一本で伊勢守にまで昇り詰めながらも、維新後には慶喜への忠義から自らも隠棲した泥舟のひたむきな生き様を、海舟なりに称賛していたのでしょう。
幕末維新ではさまざまな人物が新時代を切り拓くために奔走し、歴史を大きく動かしました。そんな中、泥舟のような人物がいたことを、その名言を、心に留めてほしいと思います。
<参考文献>
安部 正人 編纂(1903)『泥舟遺稿』、國光社、P78、PP212-213。
高橋 泥舟(たかはし でいしゅう)
1835年~1903年(天保6年~明治36年)。
幕末の幕臣で槍術の名手。「泥舟」は後年の号。
槍術の名家、山岡家の次男として生まれ、母方の高橋家を存続させるために養子となる。1860年には講武所師範役、翌年新徴組を率い、やがて徳川慶喜の側近となり、従五位下伊勢守に任官。鳥羽・伏見の戦い敗戦後は慶喜に官軍への恭順を説く。官軍の西郷隆盛との交渉役に指名されるも、自身の代わりに義弟である山岡鉄舟を推薦。維新後は隠棲し、書画骨董の鑑定などをしながら余生を送る。後年、勝海舟、山岡鉄舟と共に「幕末の三舟」と並び称される。
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