静謐の聖語板に見出してきたこと
有明キャンパス正門、武蔵野キャンパス正門・北門に設置されている「聖語板」を覚えていますか?
先人のことばを月替わりに掲示しています。
在学時、何気なく見過ごした言葉、瞬時に腑に落ちた言葉、場面を具体的にイメージできる一文、また、思わずその意味を自身に問い掛けた経験はありませんか。
そして、1カ月間、朝に夕に目にすることで、じっくりと心に沁みこんでくる言葉がありませんでしたか?
今も変わらず、「聖語板」は学生に、教職員に、大学を訪れる人に静かに語りかけています。
7月の聖語
「私というものは 私の思いより もっと深い意義を もっている」安田 理深
今回の聖語は仏教学者、真宗大谷派僧侶として知られる安田 理深(やすだ りじん)氏の言葉です。自己肯定感が低いことを悩んでいる人には、特に心に留めてほしい言葉だと思います。
どこか哲学的な雰囲気が漂うのは、安田氏が青年時代に東洋哲学やキリスト教を学だことが影響しているのかもしれません。生涯無位無官を貫いたと言われている安田氏は自ら思索を深め、私塾の「相応学舎」で親鸞思想や唯識論の講義をし続けました。
さて、安田氏の著書『信仰についての対話 II』にある今回の聖語に通じる文節をご紹介します。
われわれが生きているということは、われわれが考える以前に宿業がわれわれを生かしているし、考えてもわからないほど、深い意義をもっている。あなたがあなたとして生まれてきたということは、考えてもわからない。生まれようとして生まれて来たのではない。
安田氏は「私というもの」だけでなく「われわれが生きているということ」も「深い意義をもっている」と述べています。「深い意義をもっている」を「大きな価値がある」「深い意味がある」と言い換えてみると、わかりやすくなるかもしれません。
日常を振り返った時、自分を粗末に扱っていませんか。忙しさのあまり、日々の暮らしがおろそかになっていないでしょうか。自分を大切に扱う、気持ちよく過ごせる工夫をするなどして、「大きな価値がある」自分の「深い意味がある」人生を有意義にしてみてはいかがでしょう。
<参考文献>
安田理深(1997年)『信仰についての対話 II』、草光舎、P10
安田 理深(やすだ りじん)
1900年~1982年。兵庫県美方郡生まれ。仏教学者、真宗大谷派僧侶。
1930年、大谷大学選科を修了。同年、師事する曽我量深(そが りょうじん)や金子大榮らが開設した興法学園の園長となる。1935年、私塾の学仏道場「相応学舎」を開き、親鸞思想や唯識論の講義を行う。1943年、東本願寺において得度、曽我量深の命名により法名を「理深」とする。1961年から1966年までの6年間にわたり大谷大学に奉職した。
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