文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、鷹羽康博
小川真由美(おがわ・まゆみ)さん|フリーアナウンサー
静岡県伊豆市出身。1995年3月に武蔵野大学文学部英米文学科(現在のグローバル学部グローバルコミュニケーション学科)を卒業。追加募集のチャンスをつかみ、1995年4月にラジオ福島に入社した。桃畑の真ん中で中継したり、レコードの回転数を間違えて叱られたりしたことが思い出深いと話す。2003年からフリーアナウンサーとして活動。現在は株式やプロ野球、箱根駅伝、競馬など専門性の高いジャンルの放送に関わる。趣味は生田流正派の名取を持つ箏や三味線、ゴルフやピラティスなど。
大学とのダブルスクールでアナウンサーになる夢を追う
多くの日本人が、この人の声を一度は耳にしたことがあるはずだ。
フリーアナウンサーの小川真由美さんは長らく、成田国際空港で発着を告げる国際線の自動案内のアナウンスを担当している。海外旅行が趣味の小川さんにとって、旅立ちが行き交う場所での役目は誇りに思える仕事の一つにほかならない。
1995年3月に武蔵野大学文学部英米文学科(現在のグローバル学部グローバルコミュニケーション学科)を卒業してから、ずっとアナウンサーとして人生を歩んできた。小川さんは少女時代の憧れを笑い話に変える。
「小学生のころからアナウンサーになるのが夢だったんですよ。世界各国の魅力をクイズ形式で紹介する『なるほど!ザ・ワールド』という番組があって、そのリポーターが楽しそうだったんです。『ひょうきん由美ちゃん』として親しまれていた益田由美さんが特に好きでしたね。私もアナウンサーになれば海外にたくさん行けるんだ、なんて単純に思っていたんです」
武蔵野大学に進学してからも夢はずっと同じだった。2年生から恵比寿にある東京アナウンスアカデミーに通い、大学とのダブルスクールで将来を見据えた。鼻濁音や無声化といった専門的な技術を身につけながら、同じ夢を抱く仲間たちから大きな刺激を受けたという。就職活動が本格化した4年次、やはり将来像として思い描けるのはアナウンサーとしての道しかなかった。小川さんは明かす。
「テレビ局やラジオ局といった放送局しか受けませんでした。友だちからは『ほかの企業も受けてみたら?』と心配されましたけど、全国ネットワークの中心となるキー局はもちろん、地元の静岡や名古屋、札幌や仙台をはじめ、岡山や秋田の地方局など、とにかく放送局しか見ていませんでした。全部で三十数社に挑戦しましたね。そのなかで、おかげさまでラジオ福島から1月30日に合格の連絡をいただくことができたんです」
実のところ、どこからも内定をもらっていないうちに、2月に友人たちとロンドンやパリといったヨーロッパの都市をめぐる卒業旅行だけはすでに決めていたという。「私の人生、無鉄砲なんですよ」と自虐する小川さんの声は、けれどもとことん明るい。
「武蔵野大学時代が一番よく勉強したと思います」
英米文学科を選んだのは「単純に英語が好きだったから」。中学2年生のときの経験が大きい。ティーンエイジャーになったばかりの少女は、通っていた塾の制度を利用して、アメリカのカルフォルニアで1カ月ほどのホームステイを体験した。「人種のサラダボウル」と呼ばれるように多様な人々からなる世界に大きく感化され、英語がさらに好きになった。
武蔵野大学での学びは濃厚だったという。小川さんの声が自然と強くなる。
「小学校から振り返ってみても、武蔵野大学時代が一番よく勉強したと思います。たとえば
卒業後もずっと付き合いが続く友人たちとの出会いは、4歳から14歳まで習っていた箏(こと)がきっかけの一つだった。大学1年生のとき、同じ英米文学科の同級生が大学の公認クラブである邦楽部琴之音会に入った。秋の演奏会に足を運んでみると、自分は親にやらされていた感じがあっていやいや続けていた箏を、みんなが楽しそうに弾いている。しかも、たった数カ月で目を見張る上達ぶりだ。小川さんの心に火がつき、気づけば自身も琴之音会に入っていた。小川さんの声が弾む。
「同じ英米文学科から仲のよい友人たちを引き入れ、部室にこもって体育会系並みの勢いで日々真剣に練習しましたね。河口湖の近くで合宿も行いましたし、年に一回、武蔵野市民文化会館で演奏会も開きました。子どものころは大人に交じってポツンと弾いていたのが、琴之音会では同年代の仲間とみんなで音を紡いでいく楽しさを存分に味わうことができました」
琴之音会でお世話になった中世古雅華葉(なかせこ・まさかよう)先生とは、アナウンサーになってしばらくしてから再会している。30歳のときにラジオ福島を退社し、東京に戻ってきてからまた中世古先生から箏を習うようになり、生田流正派の名取の資格を取ることができた。
30歳を目前に新しいことに挑戦したい思いが芽生える
大学近くのアパートで一人暮らしをし、友人同士の家に泊まり合い、アルバイトや恋愛の話に花を咲かせた青春時代を経て、1995年4月、ラジオ福島に就職する。1953年に開局した東北地方で唯一のAMラジオ単営局では、入社1年目から実践を通して鍛えられた。小川さんは振り返る。
「自社制作比率がとても高いラジオ局だったので、1年目からアポイントメントの電話から始まり、取材、構成、編集、アナウンス、機器の操作の全部を一人でこなすような体制だったんです。1年目から自分の名前をつけたワイド番組をもらえたんですけど、放送中はワンマンコントロールシステムで自分でCDをかけたり、音量を調整したり、相当なプレッシャーでしたね」
アナウンサーを始めて2年目だったか、今でも忘れられない思い出がある。ふと立ち寄ったスーパーマーケットの花屋さんで会話をしていると、店員が目をつぶり「ちょっと何か喋ってください」と言ってきた。小川さんが話を続けると、目を閉じたままの店員は「ああ、ラジオ福島の小川さんでしょう」と言ってきた。生業とする声だけで自分とわかってもらえたことが、涙が出るほどうれしかった。
「小川真由美と行く旅の会」も記憶に残っている。リスナーと一緒にドイツやチェコ、オーストリアやハンガリーなどを訪れる時間は、英語が好きで、海外旅行が趣味の自分にとってうってつけの仕事だった。曰く「私は福島がとても好きだったので願わくばずっといたいと思っていたんです」
けれども、30歳を目前に新しいことに挑戦したい思いが芽生える。就職して7年と10カ月でラジオ福島を辞めた。「何も決めずに、もう2度と放送の仕事はできないかもしれない覚悟で東京に戻ってきましたね。私の人生、やっぱり無鉄砲なんですよ」と言う小川さんは、それでも2003年、退社から1カ月後にはフリーアナウンサーとして独り立ちしていた。中央競馬の情報を伝える「グリーンチャンネル」のキャスターを務め始め、ほどなく文化放送の「蟹瀬誠一 ネクスト!」と「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」のアシスタントの仕事が決まった。
現在は東京証券取引所から発信する株式中継の「東京マーケットワイド(ストックボイス)」と文化放送の「文化放送 ライオンズナイター」を軸に、幅広くアナウンサー活動を続けている。地元である静岡県の三島と修善寺を結ぶ伊豆箱根鉄道駿豆線の車内アナウンスも誇りに思える仕事の一つだ。
独立して20年ほど、小川さんは歌うように話す。
「アナウンサーは一生の仕事。私はラジオが大好きですし、仕事が嫌だと思ったことはただの一度もありません。とにかく楽しい場所なんです。アナウンサー歴は30年を迎えようとしていますが、今も日々の発声練習は怠りません。生涯現役で声を届けていきたいですね」
※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。
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小川真由美さんの大ファンです。シャープなのにところどころ甘く優しいお声は、いつも癒されつつ耳に内容がしっかり入ってきます。生き様も素晴らしいし共感ばかりです。私も天職に巡り会えて40年。コロナ禍の中頑張ってましたが、昨年からお休み中。たけぞうさんとのコラボも楽しみ。小川真由美さんにいつも励まされています。ありがとうございます。これからも頑張ってください。
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