文=菅野浩二(ナウヒア) 写真=本人提供、小黒冴夏
井上知子(いのうえ・ともこ)さん(旧姓:北条(ほうじょう))|社会体育指導員
東京都杉並区出身。1958年3⽉、武蔵野女子学院中学校・高等学校(現 武蔵野大学中学校・高等学校)を卒業。在学中はデンマーク体操部、演劇部、山岳部に所属した。演劇部では中学1年のときに『青い鳥』で主役のチルチルを演じている。体育大卒業後、体育指導員の道へ。一時期はスキーに没頭し、スキー検定では1級を取得。現在は社会体育指導員のかたわら、ウォーキングの団体に所属し、神社仏閣を訪れた際にご朱印を集めるのが楽しみの一つだという。自分を含む9回生に関しては「ちぐさ会」と名づけ、4年に一度同窓会を開いている。
木登りをしてびわの実を取っていたら
木の上で「怒られる」と一瞬、肝を冷やした。けれども、叱られなかった。半世紀以上も前の出来事なのに、記憶は鮮やかだ。井上知子さんは淀みなく話す。
「キャンパス内に学長の鷹谷俊之先生の公宅があって、中学校の校舎との間に渡り廊下があったんです。そこにびわの木が生えていて、私が木登りをしてびわの実を取っていたら、ちょうど鷹谷学長がお通りになって、『怒られる』と思ったんですが、そうではなくて『危ないから気をつけて取りなさい』と言ってくださいました。今でもそのときの先生の穏やかな顔を覚えています」
普通なら「危ないから降りなさい」と叱りつけられたかもしれない。あるいは「木登りはダメですよ」とたしなめられたかもしれない。でも、そうではなかった。頭ごなしに否定されず、物柔らかな戒めを受けた場面は、武蔵野女子学院中学校・高等学校(現 武蔵野大学中学校・高等学校)での忘れがたい思い出の一つだ。おおらかに見守ってもらった6年間だったと感じている。
たおやかに諭された場面はもう一つある。物心ついたときからおてんばだった少女は裁縫が苦手だった。家庭科で浴衣をつくる授業があったけれど、袖をうまく縫うことができない。家に持ち帰り、母親に仕上げてもらって提出した。「家庭科の先生に『あら、上手にできましたね』と言ってもらえたんです」と話し、井上さんは苦笑いを浮かべる。
「でも、そのすぐあとに『お母さんによろしくね』とおっしゃられて。しっかりばれていたんです。それなのにやっぱり怒られなかった。一方的に押さえつけられたような記憶はほとんどないですね」
最初に「思い出深い出来事は?」と訊くと、「たくさんあります」と即答した井上さんにとって、武蔵野キャンパスで過ごした6年間はのびやかに過ごせた時間だった。
3つの部活を掛け持ちし、絶えずリーダーシップを発揮
まだ「女性は女性らしく」と言われていた時代だ。小学生のころ、女の子がいじめられていると飛んでいって男の子をやっつけていた井上さんは「正義の味方」と言われていた。進学先を武蔵野女子学院中学校・高等学校に決めたのは、その姿を「男勝り」と見た両親が「なんとか女の子らしく育ってほしい」と思ったからだ。
その希望どおり、娘は控えめな女性に育った──というわけにはいかなかった。木登りのエピソードが物語るように、井上さんは元気にあふれていた。「ガキ大将じゃないけど、今でも先生に『お前はすごかったな』と言われます。なんででしょうね?」と首をひねる井上さんの表情はどこかうれしそうだ。
当時の先生で井上さんを知らない先生はいなかったという。それだけ目立つ存在だったのは、3つの部活を掛け持ちし、絶えずリーダーシップを発揮していたからだ。井上さんは言う。
「中学に入学してすぐデンマーク体操部に入りました。小学校のときからおてんばでしたから、体操はちょうどいいなと思ったんです。デンマーク体操は、デンマークの船乗りさんが狭いところで運動をしたのが原点らしいのですが、体育祭でブリッジをしたり、バランスをとったり、模範演技をしたのはいい思い出です。部活は演劇部にも入っていました。女子校で男子がいませんから、得意になって男役を演じていましたね」
夏の間は山岳部にも所属。クラス単位で行われる演劇コンクールやソフトボール大会でも先頭に立って奮闘し、そして恋もした。
「高校1年生のとき、人文地理の乘元恵三先生を好きになりました。何しろ、お話も面白いし、声もいいし、歌も上手で、素敵だったんです。乘元先生のあだ名が『のりべん』だったので、母に言って毎朝、海苔弁当をつくってもらっていたのもいい思い出です」
卒業後から「くれない会」の委員を務め続ける
デンマーク体操で体を動かすことがより好きになった井上さんは、高校を卒業後、日本体育大学女子短期大学に進学する。教育実習では母校を訪れ、保健体育の中学校教諭免許状を取得した。
短大卒業後は文化女子短期大学で体育の授業を教え、そのあと、明治学院大学の体育の助手を務めた。そこで転機が訪れる。井上さんは振り返る。
「明治学院大学の体育実技に、テレビ体操でも活躍された竹腰美代子さんが女子の指導で見えていました。それで、竹腰さんから『自分のスタジオを立ち上げるから来ませんか』とお誘いを受け、竹腰さんの教室で教えることになりました。学校体育から社会体育に移ったかたちですね。30歳のときだったと思います」
以降、半世紀以上にわたり社会体育に携わってきた。「そろそろくたびれてきました」とおどける井上さんが現在もたとえば同年齢を相手に体操を教えているのは「やっぱり楽しい」からだ。東京都練馬区の大泉学園で展開している体操教室は2023年で40年目を迎えた。
デンマーク体操がつないだ人生では、武蔵野女子学院中学校・高等学校との関係をずっと保っている。卒業後から中高の同窓会である「くれない会」の委員を務め続け、4年に一度、学年会開催の音頭をとる。同窓会のあと、みんなで体操をしたこともある。同窓生のなかでも井上さんが先導する1958年卒業の9回生は特に仲がいいと言われている。
武蔵野女子学院中学校・高等学校にいたころに撮影した写真の数々は綺麗にアルバムにまとめ、先生方から手渡された賞状もすべて大切に保管してある。青春時代のかけがえのない証だから、思い出を眺めるとき、井上さんの表情はすっと和らぐ。
※記事中の肩書きは取材当時のものです。また、学校名は卒業当時の名称です。
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